草戸千軒町遺跡について

法音寺住僧が名付けた草戸千軒

法音寺住僧弘伏が寛永一六年(一六三九)に、福山藩主水野勝成に「農民が草土村は在家千軒で、大風雨の時大汐が満ちて寺院と民家が悉く流れたと言っている」と提出した。これが「草戸千軒」の一番古い記録である(吉田彦兵衛(一六五三~一七三二)編纂「水野記」)。

 

草戸千軒の発掘とその意義

草戸千軒の発掘は、考古学史に新しい段階を築き、日本の考古学史を彩ることになった。以前の考古学は、縄文時代、弥生時代、古墳時代を主に研究していたが、草戸千軒の発掘は中世を対象にし、日本の中世発掘のさきがけとなり、鞆・尾道など現市街地の地下に埋もれた遺跡の発掘のきっかけをつくり、京都や鎌倉をはじめ全国各地で中世都市遺跡の発掘が始まった。川の中にある遺跡を本格的に発掘する、しかも、中世の一つの町全体を発掘するという、日本の考古学では例のない発掘であった。

 

発掘調査の成果

草戸千軒は柵と堀に囲まれた町で、出土遺物から見て、鎌倉時代後半の一三世紀中ごろに集落の形成がはじまり、室町時代後半の一六世紀初めころに消滅した町と考えられる。遺構の変遷は①数少ない鎌倉時代の遺構は常福寺(現明王院)に近い中央部西側中州で建物などを集中的に検出している。町は東に拡張されており、②室町時代前半期は中州全域で遺構の数が急激に増え、町が発展していく様子がうかがえる。③室町時代後半期には中州の北部から中央部にかけて町割りが明らかになり、一方、中州の南部でも大規模なまちづくりが行われたことがうかがえる。④室町時代末期以降になると、遺構はほとんど見られなくなり、町が急激に衰退していったことがわかる。検出している遺構の大半は、寛文一三年(一六七三)の洪水以降に作られたため池や杭列であり、町として機能していなかったことが知られる。

日常生活用具や信仰生活を語る木簡などの遺物、農具、工具、漁具などとともに商業生活を示す木簡などの遺物の出土から、この集落が庶民の町であったことが分かった。

特に、備前焼・亀山焼など近隣(岡山県)の焼き物から瀬戸焼・常滑焼など遠隔地(愛知県)の焼き物、また中国の竜泉窯の青磁や景徳鎮窯の白磁が出土し、物資の流通・集散を兼ねた港町でもあったことも推定できる。

 

広島県立歴史博物館の設置

貴重な遺物を永久保存するため、昭和四九年(一九七四)に福山市が広島県に資料館(明王院敷地)、昭和五一年(一九七六)に博物館建設の陳情を行う。平成元年(一九八九)三月に建物が福山市西町に完成し、同年一一月に草戸千軒町遺跡の出土遺物を中心とした広島県立歴史博物館を開館した。