草戸千軒一般

2024年

3月21日(木)中国新聞

 石斧は県内初「御子柴型」


3月3日山陽新聞

 石碑は備後南部で初の御子柴型か

 

神子柴系石器群(みこしばけいせっきぐん)は、後期旧石器時代に日本列島に現れた大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群をいう。これらの石器群が最初に発見された長野県上伊那郡南箕輪村の神子柴遺跡に由来し、または神子柴文化とも呼称されている。

この石器群は、シベリアのアムール川流域から沿海州に起源をもつといわれ、北のルートを渡ってきた。その時期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となる直前、約1万3000年前のことである。


2月3日(土)

福山市の文化振興課が主催した「中山城跡発掘調査報告会」でとんでもない報告がありました。

中山城跡というのは、現在進行中である草戸大橋(草戸千軒町の南側の橋)建て替え工事のため、

トンネルが下を横切ることになった草戸町にある城跡のことです。

草戸の地に人が住み始めたのは明王院あるいは草戸千軒の時、すなわち古くも明王院(常福寺)が開山した807年(大同二年)頃という認識でガイドをしていました。

ところが中山城跡発掘の発掘物から縄文時代(前14000年頃 ~ 前3-―5世紀)の存在を示す「石斧(せきふ)」という斧が見つかった(写真)。「石斧(せきふ)」の発掘により、草戸町は日本の歴史が始まったころから何らかの形があることになり、ガイドの説明を変えなければならない。

 

もう一枚は中山城跡東側の発掘の様子を示す昨年4月の写真です。

この写真の上部に一部家が見えますが、これは「半坂妙見社」で中山城跡に建てられています。妙見大菩薩社(焼失)から分祀され、昭和中期に建てられました。

なお、写真中央を上から下に設置されている黒い管路は、発掘した土を下に落とすためだそうです。